カテゴリ:ブルーグラス遍歴( 8 )

 

最初にお世話になったマンドリン教則本

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今日は、昔のなつかしい物が出てきてしまったので、ついここに掲載してしまいました。

この写真は、確かナターシャセブンのレコードに入っていた歌詞カードの1ページ目です。

このレコードは、学生の時に買ったような記憶がありますが、その頃、ブルーグラスのマンドリンを弾こうと思っていも、教則本は手に入らなかったかと思います。マンドリンと言えば、ラウンドバックマンドリンで弾くクラシックの方の教則本しかなかったと思います。

そんな時に、レコードの歌詞カードに書いてあった、この「マンドリン即席教室」の解説は、干天の慈雨のような感じがしたものです。

とっても短い解説なのですが、必要最低限のフレットの押さえ方やコードの弾き方等が書いてあって、とても役に立ちました。

これを書かれたかなうみたかひろさんに感謝感謝です。これが私のマンドリン事始だったように思います。
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  by kasninoyh | 2005-04-20 01:15 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラス遍歴:40の手習い

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米国で出会ったブルーグラスを愛好する日本人の人達とやっていた Orient Express というバンドで、私は、マンドリンとフィドルを担当させてもらいました。(上の写真は、Orient Express が、ニューヨーク北部の町の「桜祭り」で演奏した時のものです。)

どちらの楽器も、以前から若干はやっていたものの、なかなかうまくならず、本格的なバンド活動もやったことがなかったので、このバンドでの活動は、大変ありがたい経験となりました。

40才を超えてから、再度、ブルーグラスの世界に入門したようなものでしたが、仕事の厳しさから逃れる唯一の手段であったことも手伝って、随分とのめりこんだものだと思います。

年齢はある程度行っていても、楽器は、結構、やれば少しはましになっていくようです。といっても、勿論、昔の自分との比較であって、まったく大したことはないのですが、好きなことであれば、時間はかかるものの、ある程度は進歩する、ということは言えるのではないでしょうか。

特に、そう思うのは、フィドルです。

小さい時にバイオリンを習ったことはありましたが、まったくものにならず、学生時代に再挑戦してみるものの、やっぱり上達はしませんでした。でも、今回、米国でジャムに行って、見よう見真似でやっていくうちに、少しはフィドルの感じがつかめたような気がします。

これは、CD を聞いたりしているだけでは、なかなか体得できないことなので、ありがたい経験でした。ジャムで皆に混じりながら、いろいろ試行錯誤していくうちに、下手は下手なりに、味がでてくるということかと思います。

ジャムには、フィドルのうまい人がいつもいますし、時には、非常に有名なプレーヤーが飛び入りで入ってくれたりします。例えば、ジーン・ルインジャーケニー・コーサック等です。こういう人が来た時は、なるべく彼らの近くに行って、弾き方とか音とかをよく観察するようにしました。

ブルーグラスやケルティックの音楽では、皆でワーワー言いながら、思いっきり何でも良いから弾きまくる、そして自分で勝手に「これぐらいしかできない」と思い込んでいる殻をぶち破る、というような練習が、一時期は必要な感じがします。レッスンだけを取っていても、曲としてのメロディーのコピーはできるでしょうが、躍動するような楽しさやリズム感、呼吸といったものは、演奏を重ねるうちに自分の中に蓄えられているものではないか、というような感じがします。

ジャムでも、皆がやっている中でブレークが取れるようになる(=ソロパートの演奏をする)には、相当の勇気と積み重ねが要ります。私も、ジャムでフィドルのブレークが皆の中で取れるようになるまで、1年くらいかかったと思います。周りで演奏している人が認めてくれないと、ブレークは取れないからです。

結局、何のかのと言いながら、うまい演奏はできないものの、アマチュア中年プレーヤーにとっては、晩年のジョン・ハートフォードのフィドルのような、味のある演奏に近づければな、と思っているこの頃です。
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  by kasninoyh | 2005-04-14 21:42 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラスへの道:2度目の渡米とOrient Express

c0032583_23572788.jpg最初の渡米から帰国して、約2年間、日本で過ごしましたが、また縁あって、米国ニューヨークへ2度目の赴任をすることになりました。

この2度目の赴任中に、このブログでも触れている Orient Express という日本人によるブルーグラスグループに参加させてもらい、演奏活動も広がりました。このような形で、ブルーグラス愛好の方々と知り合いになることができたことは、大変ありがたいことでした。

Orient Express の活動は、また、お話しするとして、結局、私の場合は、この2度目のニューヨーク赴任時に、ブルーグラスを再開した、というより本格的に始めたと言ってもいい状況で、40の手習いといったところです。お陰で、仕事上だけでは得られない、米国人の友人やいろいろな経験をすることができました。

音楽の偉大さは、言葉が分からなくても人と通じ会える、ということです。ブルーグラスは、米国の中でもかなり特殊な音楽の部類ですが、好きな人間同士は、国籍は関係なく話が合います。

音楽をやることだけをとれば、なんの損得も貸し借りもありませんので、純粋な関係です。特に、ジャムやプライベートパーティーでの演奏は、しがらみがありませんので、そこでの人間関係は、関係が薄いとも言えますが、純粋に音楽をやりたい人が、そのためだけに集まって知り合っている、という風にも言えます。

とにかく、2度目の米国赴任は、私にとっては、ブルーグラスの本格スタートとなりました。
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  by kasninoyh | 2005-03-24 16:31 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラスへの道:1回目の渡米と散々のNashville旅行

英国での2年間の生活を終え、日本で2年間過ごした後、今度は、仕事でアメリカのニューヨークへ赴任することになりました。

私は、2度、アメリカに赴任しているので、これは最初のアメリカ行きです。

とにかく、ブルーグラスの本拠地の国、ということで勇んで米国へ行ったわけですが、ことブルーグラスに関しては、ニューヨークは、全くの門外漢という感じでした。そもそも、カントリー音楽系が全く街の中にありません。レコードも売っていないのです。

ニューヨークは、ジャズ、ポップス等の音楽の中心で、やっぱり、カントリー音楽は、文字通り、田舎に行かないとないんですね。その上、当時は、カントリー音楽自体も衰退期で、聞く人も少ない、という感じでした。

c0032583_2245891.jpgしかし、私の方は、「アメリカに来たんだから、とにかくグランドオープリーへ行かなければいけない」、というしごく当然の思いから、赴任した年のクリスマスは、家内と一緒に、ナッシュビルで過ごすことにしました。

当時、アメリカは不況で、ナッシュビルもなんとなく寂れた感じがありました。ホテルは立派ですが、他にあまり見るものがありません。(まぁ、アメリカの都市は、どこも同じようなもので、日本や英国のように見るところがある、というわけではありません。)

土曜日の夜の恒例のグランドオープリーのショーを見たのですが、これがたまたま、「特別企画」でした。今考えれば、日本で言う「ナツメロ」大会みたいなもので、カントリーの大御所が出揃うショーだったのです。カントリー通の人には、垂涎のショーだったんだと思いますが、全くの素人には、出てくる歌手が、皆、おじいさんやおばあさんばかりで、ぱっとしないのです。

これで、私の家内のカントリーに対する評価が、がた落ちになりました。

c0032583_22105339.jpgその後、ブルーグラスファンとしては、絶対に欠かせない、Station Inn へ行ったのですが、これが、また、想像を絶するボロ屋で、「これが世界に冠たるブルーグラスのライブのメッカなの?」ということになり、ここでも家内の評価は、がた落ちでした。

だいたい、Station Inn があるところは、ナッシュビルの中でも危ない地域で、夜は一人で歩いては絶対にだめだ、と言われたくらいです。

Station Inn のライブで何を聞いたのか、全く記憶にないのですが、家内にとっては、要するに、「聴く曲が皆同じに聞こえる」ということで、ブルーグラスの評価は、これ以上落ちようがないところまで落ちてしまいました。

ま、というわけで、散々のナッシュビル行きでしたが、この時の影響たるや甚大で、今日に至るまで、家内のブルーグラスに対する評価は不変のままであります。

結局のところ、第1回目のアメリカ赴任は、5年半に及んだのですが、仕事がいろいろ大変だったこともあり、ブルーグラスとは、特に縁がなく終わりました。
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  by kasninoyh | 2005-03-01 20:12 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラスへの道:英国にてケルティック音楽に触れる

c0032583_22411897.jpg会社へ就職後のブルーグラスとの付き合いは、低調でしたが、そうこうしているうちに、英国へ行く機会をいただき、2年間をマンチェスターという街で過ごすことになりました。

英国では、英語になれる事に精一杯で、他のことに手を出す余裕はなかったのですが、それでも、性懲りもなく、英国へ行ってからギターを買ったり、フィドルを安く手に入れたりしました。

ブルーグラスとは縁のない生活でしたが、学校の周りにはアイリッシュパブが多くあり、週末には、アイリッシュ音楽をやっていたりしましたので、ケルティックの音楽には直接触れることができました。

c0032583_23335257.jpgアイリッシュパブには、休日になると、フィドルやティンホイッスルを持った老人達が、三々五々、集まってきて、演奏をしていました。これがセシオン/セッションというものなのでしょうか。決して技巧的にうまい演奏ではないのですが、独特の味があり、時には、周りの人がダンスをしたりして、とても楽しい雰囲気なので、スタウトと音楽を楽しむために、結構、これらのパブに行っていました。

その頃は、アイリッシュも、スコティッシュも、ウェリッシュも、イングリッシュも、その音楽(民謡)の違いはまったく分らず、同じように聞こえていました。

だいたいが、英国あるいはイギリスという国が、1つの国というより、4つの国の合成体で、未だに、いろいろとお互いに確執がある、ということは、行ってみて初めて知った次第です。

もちろん、北アイルランドの問題は大問題でしたし、アイルランド自体は別の国であることは、知ってはいましたが、スコットランドとウエールズも、非常強い独自意識を持っていて、「英国」と一括して呼ぶには、複雑すぎる歴史と人々の意識があるんだなぁ、ということが分りました。
やはり、この国は、正式名称の通り、"United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland" なんですね。

又、日本の皇室とは違って、英国王室は、このような国内と英国連邦を一定の形で統合していくために必須の機能を果たしている、ということも良く分りました。(現在、この英国王室の性格も変わりつつあるのかもしれませんが。)

さて、英国滞在中に、一回だけ、隣の国のアイルランドのダブリンへ1泊旅行に行ったことがあります。ダブリンの町は、ロンドンと同じように石造りの建物が多い街ですが、歩いている人がほとんど白人なので、街としては全く違う印象を受けました。(ロンドンは、黒人、インド人、アジア系と多様です。)

ダブリンでは、夜のパブめぐりがとても楽しかったのを覚えています。

c0032583_2250085.jpgアイルランドの人は、本当に音楽が好きなようで、たくさんのパブでフォークソングの演奏をやっていました。もちろん、観光客向けも多いのだと思いますが、地元の人が多いというパブを教えてもらって行って見ると、典型的なアイリッシュパブの2階建ての造りで、主に、2階では、フォークソングの演奏をやっていました。大きな広いパブの2階にステージがあり、木の椅子がずらっと並んでいて、そこでビールを飲みながら、皆で演奏を聞いたり踊ったりしていました。

この時の旅行で、特に気に入ったのが Paddy Reilly という歌手の歌で、トラディッショナルな曲が多かったのですが、どれも美しく、現地の言葉が入っていて歌詞は分らないのですが、今でも好きな曲となっています。

というわけで、英国では、ブルーグラスとは疎遠でしたが、その源でもあるケルティック音楽に直接触れることができたのは、大変な幸運でした。
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  by kasninoyh | 2005-02-27 22:57 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラスへの道:就職後の三鷹楽器ブルーグラス教室

c0032583_23311053.jpg私が就職活動をした年は、第2次オイルショックとかで、不況下の非常に厳しい状況でしたが、何とか就職して、北海道から東京へ出てきました。

皆さん同じでしょうが、会社員の生活は、なかなか大変でした。お給料をもらって自分で使えるお金が多くなったのは良かったのですが、今度は自分の時間がありません。

だんだん、会社の仕事にも慣れては行きましたが、同時に忙しさも責任も増えていき、更に、ノルマもあって、相当フラストがたまってきていました。

その解消のためもあって、学生時代にやった音楽をやりたくなってきました。

まずは、クラシックギターを教えてくれる新堀ギター教室へ少し通いました。この時、ギター教室で委託販売していたドイツ製ギターのエドガー・メンヒに一目ぼれして、衝動買いしてしまいました。(これはえらく高かった!)でも、ギターの方は、なかなか進歩しませんでした。

c0032583_23202180.gifそのうち、ブルーグラスの楽器を教えてくれる教室が、当時、三鷹駅前にあった三鷹楽器でやっていることを知り、ここのマンドリン教室へ通い始めました。

先生もとても良い方で、丁寧にタブ譜を用意していただき、1音1音、弾き方を指導してくれます。生徒は、数名だったと思うのですが、レベルは皆同じ程度で、楽しく過ごさせてもらいました。

その時の先生に頼んで、バンジョやギターの教室の人を紹介してもらい、小さなグループのようなものを組んで、2、3回練習をしたりもしてみました。

三鷹楽器も、もう2年くらい前に閉店となってしまったようですね。あのお店にお世話になったアマチュアプレーヤーは、結構、多いのではないかと思いますが、やはり時代の流れでしょうか。(つづく)
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  by kasninoyh | 2005-02-24 22:43 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラスへの道(高校、大学):フォークからブルーグラスへ

c0032583_235407.jpg中学時代にブルーグラスという音楽に目覚めたわけですが、あまり情報もなく、そうこうしているうちに、高校受験となり、中学時代の友達とも別れ別れになってしまいました。

高校では、1年の時には軟式テニスをやったりして、あまり時間もなく、音楽の方は、適当にやっていましたが、学芸会の時には、体育館の演奏の時間に、一人でギター弾き語りをやったりしました。フォークソングが日本にも定着して、和製フォーク全盛でした。サンフランシスコベイブルースに日本語の適当な歌詞を付けて、皆の前で歌ったのを覚えています。

高校は、神奈川県だったのですが、大学は、北海道へ渡りました。大学では、ワンゲルに入ったので、忙しかったのですが、片手間でフォーク、ブルーグラスをかじっていました。

当時、私が居た大学には、ブルーグラス専門のクラブはなく、フォークソング研究会、というクラブがあって、私はこちらにも顔を出していました。たまたま、このクラブにブルーグラスが好きな連中が集まっていて、いくつかブルーグラス・グループができました。又、他の大学の同好の人達とも集まって、小さな喫茶店で演奏したりしました。(一人ものすごく楽器のうまい学生がいて、何でも弾いていました。彼の名前はなんていったっけ?)

大学時代、人前で演奏したのは、このフォークソングクラブ主催のコンサートで、集まった仲間と適当にグループを作って、いくつかの曲を演奏したぐらいです。私の担当は、ギターとリードボーカルで、I Wonder Where You Are Tonight を歌ったことだけは覚えています。

奇妙なことに、このコンサートの時、私のいた大学の近くの女子大学出身で、ヤマハの音楽コンクールで優勝かなんかした、売出し中の女性歌手をゲストに呼んで演奏してもらいました。ところが、彼女が、演奏の途中に泣き出してしまったのです。本当に驚きましたね。その歌は、つい最近亡くなった恋人のことを歌った歌だったそうです。

それが、中島深雪(みゆき)でした。当時から、歌の音程は微妙に狂っていましたが、すごい迫力がありましたね。

大学の時は、それなりにブルーグラスをやっていたのですが、ワンゲルも一生懸命やっていたし、学部の勉強も、結構、大変だったので、今ひとつのめり込めず、楽器もギターやバンジョ、フィドルを少しかじった程度で終わってしまいました。

そして、第2次オイルショック直後の厳しい就職活動に入っていって、ブルーグラスともしばらくお別れの生活となっていきました。 (つづく)
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  by kasninoyh | 2005-02-17 14:25 | ブルーグラス遍歴

ブルーグラスへの道(中学時代):アメリカのフォークソング

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自分はどうやってブルーグラスにのめり込んできたのか、その経緯を少したどって見たいと思います。---私がどうやってブルーグラスをやるようになったか、なんて他の方には、全くご興味はないとは思いますが...

音楽を自分でやってみたい、と思ったのは、中学生の時、アメリカのフォークソングを聴いてからです。バンドを組んで、歌を歌うだけでなく、自分達で演奏までしてしまう。それにハーモニーもきれいだ。こういう自分でできる音楽というのは、とても新鮮でした。伝統的な日本の音楽や、クラシックや歌謡曲とは随分違って、「自分でもできそうだ」というところが非常に魅力的でした。カントリーやハワイアンもあったのでしょうが、どういうわけかシンプルな感じのフォークソングが好きでした。

そのうち、自分でもやってみたくなって、親にギターを買って欲しい、とせがんだのですが、なかなか買ってはもらえませんでした。

これには、理由があります。私は、以前、小学生の頃、バイオリンを習わされてたのですが、これがいやでいやで、1年足らずで泣いてやめてしまいました。やめた後は、せいせいした顔をしていたらしく、親は、その時のことが強く印象に残って、この子に楽器を与えてもだめだ、と考えていたようです。

自分でやりたいものと、外からやらされるものでは、大きく違うんですよね。まったく、親は分っていない。(ところで、自分は親として大丈夫かな?同じことを娘にしてしまっているかも。)

まあ、とにかく、安いガットギターを買ってもらって、これが嬉しくて毎日のように弾いていました。主に、Peter, Paul & Mary とか、Brothers Four とか、Kingston Trio とかの音楽をコピーして、中学の友達と二人でグループを作って、いろいろ試してみました。

あの頃は、レコードも高かったですよね。お小遣いでは、LPなどはとても買えず、シングル版ではあまり良いのがないですから、ラジオから一生懸命録音したりしました。録音するテープレコーダーだって、最先端の高級機材でしたよね。ソニーのオープンリールのテープレコーダーが懐かしい。

ところで、そのうち、Kingston Trio が変な楽器を使っているのに気がつきました。1つは、弦が4本しかないギターです。もう一つは、丸い太鼓のようなものに竿がついた楽器です。このバンジョという楽器の音はとても強烈でした。すばらしい早弾きで、いったいどうやればこんな音が出せるのだろうか、是非やってみたい、と思いました。

近くの楽器屋を回って見ると、安いピアレスのバンジョがありました。しばらく迷って、結局、店に置いてあった裏蓋のあるバンジョを買いました。教則本は、ピート・シーガーの本しかなかったので、これを買いましたが、私がやりたかった3フィンガーの弾き方は、あまり詳しくは書いてありませんでした。

そのうち、東理夫さんの本が出て、随分、分りやすくなりました。(東さんの本は、1970年の7月に買っています。)でも、バンジョの腕はあまり上がりませんでした。 (つづく)
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  by kasninoyh | 2005-02-07 01:24 | ブルーグラス遍歴

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